daily practice 「なぜ毎日練習」しなければいけないのか

その前になぜヨガをするのか、その目的をおさらいします。

ヨガの目的

自分の心と体を自由にコントロールできるようになること

ですよね。

秤のポーズ utplutihi ウップルティヒ

 

 

感情に振り回されず、起きる出来事に客観的冷静に判断・行動できれば、様々なトラブルを避けられ、心も体も安定して落ち着いていられるわけです。

 

「起きる出来事に客観的冷静に判断」というのは、どうやってするのか?

 

例えば、何か自分が嫌だな〜、と感じるような出来事が起きた時。

「怒っちゃダメダメ!我慢我慢!」と怒りを抑える・・・のではありません。

考え方としては、

「この出来事も感情も、いずれは通り過ぎていくもの」という風に捉えて、そこにいつまでも執着しない

という感じです。

 

そうすれば、その怒りに任せてその対象を攻撃することもありません。

(これを「良いパターン」と名付けます。)

 

逆に、攻撃すれば、その時はスッキリしたような気がしますが、心は決して晴れません。それどころか、何度も繰り返し思い出して、怒りのトラウマを積み重ね続けることになります。

(これは「悪いパターン」

 

「良いパターン」を何度も繰り返すことで、自分が「怒り」を発生させる原因に対する反応もどんどん小さくなっていき、いずれ、「怒り」自体発生しなくなるというのです。

 

でも、これが真理・真実だと知っていたとして、実際にやろうとしても、はっきり言って実現は無理です。そんなに簡単なことではないからです。

 

だから、「daily practice」、毎日アシュタンガヨガの練習をする必要があるのです。

毎日練習をしていると、

「今日は調子が良かった」とか「できないことができた」と嬉しいこともあれば、

「昨日できたのに今日はできなかった」「きつくて体が動かなかった」と、モヤモヤする・・

といった変化が、大なり小なり常に起こっていることに気がつきます。

 

時々しかやっていないと、些細な変化には気づきにくいです。

それに、日常的に「全ての物事が常に変化し続けている」ことへ意識を持ち続けている人というのは、社会から離れた修行者くらいのもので、普通の人にはできません。

そして、「昨日できたことが、今日はできない」という変化が、当たり前だと気づく

そういう変化が当たり前だと知れば、そのうち

いちいち「難しいことができた!」と心浮かれることもなく、

「今日はできなかった・・」と落ち込むこともない。

つまり、心の浮き沈みが段々小さくなっていき、ちょっとやそっとでは動じないたくましい心と体になっていくのです。

 

そしてこれが、日常生活にも影響を与えます。

わかりやすい例で言えば、

「臨時収入が入った!!と、浮かれて、大きな買い物をしてしまい、給料日までギリギリ生活・・・」

とか、

「嫌なことがあって、自棄食い、自棄飲みして、悲惨なことに・・・」

とか、

一時の感情に振り回されて、自制心を失い、後悔するような行動を取ることが無くなります。

 

ちなみに、

このような理屈を知ると「真理」を理解したような気になりますが、実際に心と体を使って練習をし、自ら体験しなければ、本当に理解していることにはならないし、役に立ちません。

でも、ヨガの練習を毎日繰り返すことは、心と体をコントロールするトレーニングをしているのであって、たとえその真理を理解していなかったとしても、自分の生活に実際に役立てることは、できるんです。

当たり前ですが、その練習をしなくなれば、コントロールできるようにはなりません。


さて、では私たちは、毎日ヨガの本来の目的「自分の心と体を自由にコントロールできるようになること」を意識しながら、練習をしているでしょうか?

初級者から中級者の場合、それを意識しながら練習をしている人は、ほとんどいないと思います。

まだその域に達してない、からです。

初級者から中級者は、

「もっとできるようになりたい」「体を強くしたい」「気持ちがいい」

という、単純な欲求が原動力となっていて、それが強ければ強いほど、毎日のように練習をします。

そして上級者になれば、今度は、その欲求(エゴ)を手放し、さらに内観を重視する練習をするようになります。

 

かくいう私も、まだまだエゴを手放せる領域にいません。

先に進みたいという気持ちと、まだこの領域でじっくり修行したいという気持ちとの間で揺れています^^

その感覚もなんとかバランスを取ろうとしていて、ヨガっぽいなあと思っています。

皆さんは、いかがですか?

自分に置き換えて考えた時、どんなことを感じるでしょうか?

何か発見があれば、ぜひ教えてくださいね。

 

「原因」と「結果」

「この世の中に不思議なことなど何もない」と思うようになったのは、京極夏彦の小説の影響(百鬼夜行シリーズの主人公の決め台詞)もあるのだけど、ヨガや瞑想をするようになってからますますそれを実感するようになりました。

全ての物事には原因があって、当然の結果になっている。

「蒔いた種の通りに花が咲く」
「自業自得」
「全ては自分の責任」

何かトラブルが起きた時に、何かの所為や人の所為にしたくなりがちですが、自分で蒔いた種は自分で責任持って摘もうという心構えを常に持っていれば、この世で起きることなんて、大したことではない。ということです。

 

病気についても私はそう思っているところがあって、「病は気から」って昔から言うけれど、全ての病気の原因は自分の「ストレス」からくるものだと思っています。

生きていれば、大なり小なりストレスを感じるものですが、それをうまくかわしたり逃したりしながら、病気知らずの心と体にしていくことはできると思っています。(考え方だったり、日々の訓練、身体のメンテナンスによって可能)

ヨガや瞑想は、間違いなくそのためのツールとして利用でき、誰でもどこでもいつまでも続けていくことができるものです。
科学的、論理的でありながら、自然で無理のない方法です。

だから、心からオススメしたい。
営業トークでもなんでもなく、迷いなく。

これは奇跡でもなんでもない、原因による当然の結果。

続ければ必ず結果が出ることを体験してもらえると思います。

 

瞑想は機が熟せば自ずとやってくる

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私たちのほとんどは、無意識のうちに瞑想がもたらす心の安らぎを求めているように思います。

例えば、お料理や掃除に集中したり、スポーツを楽しんだり、その行為に没頭している少しの間は、嫌なことも時間の流れさえも忘れ、そしてその後なんとなくスッキリしたような気になる、、そういった経験はありませんか?

こういった独自の瞑想習慣といいますか、心が落ち着く方法を誰から教わるでもなく知っていて自然と行っている人は結構いると思うのです。

野球選手のイチローが試合前に必ず行うルーティンも、色々なスポーツ選手が試合前に必ず聴く音楽がある、というのも、目の前のことに意識を「集中」していくための独自の方法なのだと思います。

そして緊張や不安など絶え間ない心のざわめきは止み、落ち着いて試合に臨めるというわけです。

 

話は逸れましたが、私たちが物事に熱中した時に得られる充実感は、その活動そのものよりも、集中したことによって一時的に悩みや心配事を忘れるという事実からくることが多いのです。

逆に言えば、そういった行為は「関心がそこに向いている間だけの安らぎ」しかもたらしてくれません。

心は一旦そこから外れると、またいつものように、フワフワと漂いはじめ、過去のことを考えたり、未来のありもしないことを考えたりするのにエネルギーを浪費し、しょっちゅう目の前にある事柄から横道にはずれてしまうのです。

 

心がいつでも安らいでいる状態でいられるように訓練しようと思ったら、瞑想の実践をすればいいのです。

瞑想法とは、自分の心が今、どういう状態にあるか常に観察する訓練です。

瞑想の訓練を続けると、目的意識と意志が強まり、思考が明晰になり、高度の集中が可能になり、何をやっても違ってきます。

また、「瞑想」は「眠り」のように教えたり教わったりはできず、正しい方法とステップで練習し、機が熟せば自然と訪れるものと言われています。

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お気に入りのネコとねんどをカゴに入れて、、
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今日から二人で実家にお泊まりです。庭の紫陽花がきれい!

と、いうわけで、明日は久しぶりに1日瞑想会に参加します。朝から夕方までインターバルを挟みながらの瞑想。

久しぶりだから相当足も痛いしキツイでしょうが、そういう瞑想だけに没頭できる環境に身を置けるってなかなかないことなので楽しみです。

でも、、居眠りしちゃうだろうなぁ〜σ^_^;

 

 

 

自然の摂理、法則に従う生き方

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今から10年以上前の話ですが、ハワイやヨガやサーフィンに出会った頃、自分は自然の中の一部であるのだなあという実感を持つようになりました。それから、これまで色々とありまして、不自然な生き方をすることになったり・・・もあったのですが、結局はゼロに自分を戻し、もう一度原点に帰って生き直そうと決心したのは、やはりヨガという考え方が既に自分の中にあったからなのかもしれません。

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「日の出とともに活動をはじめ、日の入りとともに身体を休めること。自然の法則に従って生きていれば、間違いを起こすことはない。お前はお天道様に恥じることのない生き方をしているか?」といういつかの父の言葉は、その頃の私の”迷う心”を鋭く突いたのですが、そういったタイムリーに自分に刺さる言葉たちが、当時の私を本来とおる道へと戻してくれたのかなと思うのです。

タイミングってあるんですよね。嘘をついたり、ごまかしたりして生きていたらそのタイミングに気づかない。そういうときの目は濁り、耳は遠く、勘は鈍くなっている。聞く耳を持たない、、という表現がありますが、人の言葉に耳を傾けられない時の心は、常に怒りの感情がメラメラ燃えていて何に対しても反発している。そんな苦しくて仕方がない窒息状態でいったい何ができるの?という感じです。

私はその時、藁にも縋る想いで父の言葉に耳を傾けたから、自分を全て受け入れることができたのかもしれません。

認めてからは、色々なことが自分の思うように運んでいきました。それは、周りに動かされているというよりは、自らそうしているという実感がとてもありました。それは、スムーズに目的地へ行く道が見えていて、しっかりと自分のペースで自分の足で歩いているという実感です。(もちろん、いろいろな方の力添えあってのことです。)

今まで、そんな生き方をしてこなかった私にとっては、それがとても衝撃的な変化でした。ですが、産まれてからずっとその”道”が見えている人も世の中にはいます。そういう人は生まれながらにして、本来の人の生き方を知っている人なのかもしれません。私は、そのことに気づくのに人生の半分近くを使い、たくさんの人たちを悩ませ苦しませ、同じくらい傷ついて、漸う・・・ということなのでしょう。

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“自業自得”

結果には必ず原因があり、自ら行った善悪の行いの報いは必ず自分が受けることになるという仏教用語です。

私が蒔いた種は、いたるところで芽を出しています。良い芽は大切に育て、悪い芽は早目に摘む。良い種をたくさん蒔いて、悪い種は蒔かないように努力をする。悪い芽は見つけたらすぐに摘み取れるように常に心をパトロールしておく。

自然の法則に従って生きるというのは、簡単に言うとそういう生き方なのではないかと私は思っています。

ヨガの八支則の中のヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)では、そういう生き方のための具体的な心構えが示されています。

そういったものを参考にしたり、実践しようと試みるだけでも何か発見があるかもしれませんね。